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ルーンの子供たち~冬の剣~ を読んで : ウィンタラーはスマートフォンである

全民煕(ジョン・ミンヒ)が書いた「ルーンの子供たち」というファンタジー小説がある。

ウィンタラーとは

その中で、威厳ある家族を失い、唯一頼れる兄が死ぬ前に弟、主人公のボリスに残した知るものは誰でも欲しがるウィンタラーという剣がある。どんなものかというと、使いたいものの望みをかなえるために力をくれる剣であり、またそのいきすぎた力のために失った者たちの魂がこもっている剣であった。ここで失った者の魂はプラスに働くと思いたいのだが、実際は違う。使用者の体を乗っ取り自分たちと同じく、破滅の道へと向かわせるのだ。

剣自体は使用者の望むように力をくれるものだが、その力に溺れてしまうと、剣に宿る魂たちの導きのまま自らを殺してしまうのだ。

一緒じゃ?

昨日の夜に続いて今日この本を読み、一休みしていたところこの考えが思い浮かんだ。「あれ?スマホと一緒じゃないか」と。スマートフォンを知るものは手に入れられない状況に我慢できず購入する。また、スマホ自体はただの道具だが、その中には我々の貴重な時間を使い収益を得ようとする思い、アプリが多く入っている。スマートフォンは私たちに多くの選択肢を提供してくれるが、そのすべてを吟味したり、実行しようとすると、私たちは自らの首を絞める。例えば、運動不足、栄養の偏った食事、人と触れ合うこと、現実からの逃避によるストレス、たまらないお金などなど。すべてが当てはまる人はいないだろうが、使っている者にはスマホの存在により引き起こされている症状を持ち合わせているだろう。

だからどうした ※ネタバレ含む

 

主人公であるボリスはこの剣を持つことで死ぬめにあった。また、多くの出会いもしてきた。だが、最終的には剣を使えるようになったのだ。それは高望みをしない平凡な生活を望んでいたからだ。ウィンタラーを使ってきたものは、上を上を目指し、その途中で飲まれてしまった。だが、ボリスはその欲を持たなかったため、長い年月剣と共に過ごせた。

私たちはどうだろう。スマートフォンは私たちの欲求を掻き立て、それをかなえるすべを持っている。私には気合でどうにかなることではないと思える。アマプラのアプリが目の前にあるのに見ないよう我慢することはできるだろうか?!DaiGoさんが紹介した本を買わずにいられるだろうか?!

私には無理だ。本の中ではウィンタラーに飲まれたくなければ捨てるか、死ぬかを選べというシーンがある。ボリスは何があっても使いこなす道を選んだ。わたしは共存のように思えた。だが、私はスマートフォンと共存はできない。操られ、その時分に嫌気がさす。私だったら死にたくはないので捨てる道を選んだであろう。みなさんだったらスマートフォンとどう接する?

 

(最後に操られてと書いたが、現実から目をそらすために自分から使いに行く場面もある。それを認めたくないがために書いた嘘だ。)